マエストロ都築の部屋
音楽家の「遺言」
常に私たちは時代と「共犯関係」にある
名古屋モーツァルト協会顧問
築正道
 実際にその音楽を聴きながらの講演だったのは、音楽好きの名古屋モーツァルト協会の会員にとって、とても嬉しいことであった。今回の亀山郁夫先生の講演は、ショスタコーヴィチの交響曲の話でありながら、内実は、極めて現実の事情に即した「アクチュアル」(嘘偽りのなさ)なものであったのも、嬉しいことであった。
 贖罪の共犯関係
  例えば、「共犯関係」だ。現実にはなかったショスタコーヴィチとスターリンとの「共犯関係」を世間は噂した。それに対して、ショスタコーヴィチは、彼の多くの作品の中で、スターリンを揶揄することで、この「共犯関係」を巧妙に否定した。これが、「二枚舌」の作曲法だ。その一方で、ショスタコーヴィチは、「大勢の人たちがスターリンによって殺されたのに、自分はまだ生きている」という「共犯関係」に苦しんでいた。このショスタコーヴィチの苦しい悔恨の思いは、いまの私たちの苦しい悔恨の思いと同じである。同じ時代に生きたショスタコーヴィチの、このスターリンとの共犯意識は、そのまま、東日本大震災に対する私たちの共犯意識である。津波との共犯であり、防災との共犯であり、震災復興の遅れとの共犯である。
「なぜ、もっと早く警報を出さなかったのだろうか」
「なぜ、もっと津波に対する有効な対策を立てなかったのだろうか」
「なぜ、もっと早く復興がなされないのだろうか」
 またそれは、時代を越えて、そのまま広島・長崎への原爆投下への私たちの長い悔恨でもある。未来の原発世界の容認もまた、共犯意識を感じさせる。だが私たちは、なにもしようとはしない。これを、「贖罪の共犯関係」といおう。
  ポスト・モダン
こ の「贖罪の共犯関係」の対極にあるのが、「ポスト・モダン(現代)」だ。これは、「モダン(現在)」だけをすべての時代から切り離して考えるものだ。昨今のワーグナー劇における「ポスト・ドラマ演劇」の現状を、名古屋モーツァルト協会の講演会で北川千香子さんが紹介してくださった。ワーグナーの楽劇そのものが、本来、「ポスト・モダン(同時代)」への意志を内蔵している。私はこのポスト・モダンな演出に、極めて危険な希望を感じた。従来の作劇法を放棄して、奇を衒うライブ上演をその信条とする「ポスト・ドラマ演劇」が、その珍奇さとその破壊性のゆえに一般の人気を博しているのももっともだ。面白ければいい、劣情を刺激すればいい、巷の話題になればいい、高等な伝統と高貴な継承を断ち切ればいい、お座なりの信頼関係を打ち砕き暴力的であればいい、退屈な平和などない方がいい - それは、あらゆる負の遺産をかなぐり捨てて、自由に生きようとする意志だ。希望だ。これは危険な意志であり、危険な希望だ。なぜなら、この無節操な「ポスト・ドラマ演劇」は、「反知性主義」へとつながる。
 反知性主義
 「反知性主義的な演劇」とは、自分にとって不都合な真実を無視する「ご都合主義」に徹することである。むろんそれは、喜劇の本流である「ウエルメイド・プレイ」とは全く異なる。有り体に言えば、これまでの演劇の法則や作劇法をわざと無視して、すべてをリセットして、「今日いまから、この場で、フリーハンドでお芝居を組み立てよう」という、すべての負債を放棄したいのだ。正直言って、私たちはもう、常にワーグナーの悪をナチズムの悪に結びつける贖罪の意識にはウンザリしているのだ。ワグネリアンたちは、「ナチズムはワーグナー死後の出来事ではないか」という免罪符をもっている。「ワーグナーの楽劇を、初演の状態にリセットしよう」という願いは、私ももっている。そうなれば、なんと楽劇は楽しいことだろう。実はここに、「ポスト・モダン演劇」の魅力と陥穽がある。ナチの被害にあった人々は、そうは思わない。現代にあっては、あくまでもワーグナーとヒットラーはいまだに共犯関係にあるのだ。この問題もまた、亀山先生が示唆した「贖罪の共犯関係」によって解ける。
  空谷(くうこく)の叫び 
 私たちは、オペラやバレエよりも、交響曲を好む。私たちはいまだにベートーヴェンの「運命」をなんどでも聴く。この高揚感はなんだろう! この達成感、この破壊力、この新鮮さ! 私たちは、もっと「運命」を聴きたい。なぜ、現代の作曲家たちは私たちのために、私たちの「運命」を書いてくれないのだろうか。それは、彼らが怠慢だからだ、彼らに才能がないからだ。真の作曲家よ、出でよ! …… そのとき、私たちの空谷の叫びを聞いて颯爽と一人の作曲家が交響曲を引っ提げて現れた。それも、耳が聞こえないという。まさにベートーヴェンの再来だ! 現代のベートーヴェンがやってきたのだ。ヨハネの先達なしに……。日本では、「交響曲」は絶対音楽ではありえない。俳句を作るように、身近な言葉で分かりやすく解釈する。反知性主義が、交響曲にも個人の感情的な趣向を許し、個人の恣意性が社会の無責任な動向を導く。そこには、「贖罪の共犯関係」はない。 
  ショスタコーヴィチは、絶対音楽である交響曲を書きつづけた。それも15番まで書いた。その中には、「運命」もあり、「田園」もあり、「英雄」もあり、「第九」もあり、「二枚舌」もある。まさにベートーヴェンの再来だ! 彼こそ、現代のベートーヴェンである。耳が聞こえないのは私たちだった。「ショスタコーヴィチの交響曲を聴いて下さい」という亀山先生のヨハネの言葉に従おう。
ワーグナーの場
 ワーグナーにも二枚舌がある。それも二組ある。一組は、「人物と作品」の乖離を埋め合わせるためのものであり、もう一組は、「楽劇と音楽理念」の乖離をなくすためのものである。このことはトーマス・マンの講演「リヒァルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大」(岩波文庫)に詳しい。講演の題の「苦悩と偉大」(Leiden und Größeからして、ワーグナーの「人物と作品」がテーマであることが分かる。すなわち「苦悩」がワーグナーの傲慢な人物像を指し、「偉大」がワーグナーの革新的な楽劇を指すからだ。              <以上>
【資料】亀山郁夫
1949年2月10日栃木県 宇都宮市生まれ
ロシア文学者、ドストエフスキー、マヤコフスキー、ショスタコーヴィチ 翻訳家、作家 東京大学大学院人文科学研究科博士課程その後退学
現・名古屋外国語大学学長、前・東京外国語大学学長
 【資料】亀山郁夫の代表作 『破滅のマヤコフスキー』(1998年) 『磔のロシア』(2002年) 『謎とき「悪霊」』(2012年) 大佛次郎賞(2002年)毎日出版文化賞特別賞(2007年)プーシキン賞(2008年)その他
【資料】トーマス・マン「リヒャルト・ワーグナーの苦悩と偉大」(岩波文庫)文庫: 222ページ
出版社: 岩波書店 (1991/5/16)
ISBN-10: 400324348X


【資料】「リヒャルト・ワーグナーの苦悩と偉大」は1933年2月10日ミュンヘン大学でのもの。ヒトラーの首相任命の10日後。反響はすさまじく、のちにマンがドイツにかえれなくなる原因となった。
 のちにドイツの音楽家からこの講演に反対する決議文も公開されたナチスがバイロイトを聖地化していた時代であった。 ワーグナー没後50年を記念しての講演。
【資料】空谷(くうこく)の叫び
《「荘子」徐無鬼の「空谷に逃るる者は、人の足音の跫然たるを聞きて喜ぶ」から》だれもいないはずの山奥で聞こえる足音。孤独なときに受ける珍しくてうれしい訪問や便りのたとえ。出典:デジタル大辞泉(小学館)
【資料】絶対音楽
 音楽以外の制約から解かれた,すなわち他の芸術と結びついていない純粋な音楽をいうしたがってそれは,言語内容を音に響かせようとする意図や,対象的なものを模倣あるいは描写しようという意図,また感情などを表現しようとする意図はもたず,音楽的形式や秩序そのものがその存在の根元をなしている。この概念は 18世紀終りから J.ヘルダー,L.ティーク,E.ホフマンらにより問題にされはじめ,19世紀の音楽美学者 E.ハンスリックによって強調された。出典 ブリタニカ国際大百科事典