モーツァルトと郵便
モーツァルトと郵便 |
K.515 鐘ヶ江 |
1770年3月3日 ミラノからナンネルに宛てたモーツァルトの手紙 |
モ-ツァルトは35年間の生涯に約300通の手紙を書き、そのうち約200通が遺っている(文献1及び2など)。 彼が書いた手紙の中から、その頃の郵便制度がどの様なものだったかを知ることができないかと、モ-ツァルト父子の手紙を読んでみたが、以下のことしか発見できなかった。 |
高橋英郎著「モ-ツァルトの手紙」(文献2)の情報からは ①郵便が火曜日と金曜日にしか授受できないこと ②料金は、手紙1通当たり、出す時も受け取るときも、「火を焚く費用」と同じ位の、12~18クロイツァ―(意外に高い!)かかること ③手紙はパリ=ザルツブルク間は10日かかったこと ④インクは、黒の他に青、赤、緑があったこと ⑤郵便で小切手も送れたこと など断片的な情報は得られた。 その後、他に適当な資料がないかと探していたら、菊池良生氏の「ハプスブルク帝国の情報メディア革命」(文献3)を見つけた。以下は、同書に負うところ大である。 |
さて、郵便(情報伝達)の歴史は古代に遡る。その手段は、狼煙(のろし)に始まり、伝書鳩、個人による口伝(マラソンの始まり)、徒歩飛脚、宿駅リレ-、騎馬飛脚、駅馬車、郵便馬車などの長い歴史がある。 |
手紙の素材についても、陶板、羊皮、ナイル川のパピルス(paper、紙の語源)と言う流れがある。近代郵便制度は、神聖ロ-マ帝国のカ-ル5世(1519~1556)が、国の命令伝達のため、イタリア北部ベルガモの飛脚問屋、タッシス(ドイツ語ではダックス)家と郵便契約を結んだことを嚆矢とし、17世紀にかけて、次第に、手紙のリレ-輸送、郵便の定期化、料金の定額化、為替決済の導入などへと進み、また、郵便網も、ブリュッセルを起点にインスブルック=北イタリアへ伸び、また、インスブルック=パリ=スペインと言う幹線もできた。 さらに、「帝国郵便」は、各領邦国家の「領邦郵便」と郵便契約を結び、ネットワ-クが広がっていった。しかし、郵便は国家あるいは領主の事業であり、ダックス家は、いわば、雇用された郵便総裁であり、各宿駅の駅逓長(郵便局長)は、資本が要るため、日本の旧特定郵便局長と同じく世襲であったと言う。かくして18世紀は「手紙の世紀」となり、富裕層が盛んに郵便を利用した。 |
モーツァルト宛ヴァルドシュテッテン男爵夫人の手紙 サイン部分 |
しかし、当時の手紙は「局留め」で、料金表に基づき、受取人も料金を支払った。封筒はなく、折り畳んで住所、宛名を書いたようだ。切手や葉書は19世紀を待たなければならない。したがって、手紙の秘密は保証されなかった(国の検閲権)。手紙は、遠隔地や外国の情報源でもあり、後に宿駅(郵便局)が新聞を発行するようになる。 |
モ-ツァルトは、郵便に関する情報は遺さなかったが、郵便馬車の到着と出発時に御者が奏でる「ポストホルン」の貴重な音色を、セレナ-タ第9番(K320)の第6楽章に遺してくれた。なお、「ポスト」はイタリア語のpostaを語源とし、その意味は「宿駅を配置する」ことだそうである。 |
(参考文献) 1.柴田治三郎編訳「モ-ツァルトの手紙」(上・下巻)、岩波クラシックス、1893年 2.高橋英郎著「モ-ツァルトの手紙」、小学館、2007年 3.菊池良生著「ハブスブルク帝国の情報メディア革命-近代郵便制度の誕生」、集英社新書、2008年 |