ドビュッシーの生涯

クロード・ドビュッシーの生涯
20世紀のとびらを開いたフランスの作曲家  K.550吉川
【はじめに】 
1600年以降に生まれた知名度のある作曲家で、本年記念年を迎えたのは約7名をかぞえる。その中で我々にとって何といっても存在感の大きいのはドビュッシーであろう。  1862年生まれで、本年生誕150年を迎えた。高校生の頃から「牧神の午後への前奏曲」や交響詩「海」などは音楽の時間に鑑賞したが、当時の感覚ではドイツ系の曲に比べ何となく馴染みにくかった記憶がある。
今回彼の生誕150年を機に彼の生涯を始めて調べてみたので、概要をリポートさせていただきたい 。
クロード・ドビュッシー
(Claude Achille Debussy 1862年8月22日サンジェルマン=アン=レー生、1918年3月25日パリ没)はフランスの作曲家、形式、和声、色彩において伝統的基準によらない、全く独自のオーケストラや、ピアノのための作品を多数残し、また、歌曲や唯一のオペラ「ペレアスとメリザンド」は、控え目な表現による新しい内面的心理描写に成功した。   
後世の作曲家で、ドビュッシーの影響を受けていない者はほとんど見られない。文学のマラルメ、美術のセザンヌにしばしば比べられることがある。ドビュッシーは作風などから最も典型的な印象派音楽家と見做されている。
ファイル:Claude Debussy ca 1908, foto av Felix Nadar.jpg<by Nadar>
Ⅰ.生涯   
ドビュッシーが生まれた当時、両親は陶器の店を経営していたが、父は間もなく行商人となり、次に印刷屋の手伝い、後に事務員となった。
 また母は暫くの間、お針子をしていた。幼いドビュッシーの不安定な生活は、1871年のパリ・コミューンのときに頂点にたっする。その時彼の父は革命に加担した罪で投獄されたからである。
  然しこの間にドビュッシーは、詩人ヴェルレーヌの義母に当たるモテ夫人からピアノのレッスンを受けていた。この夫人は、ショパンの弟子だったと言われてきたが、例えそうでなかったにしても、少なくとも手中にある素材の並外れた素質には気付いていた。
 72年10月、ドビュッシーはパリ音楽院に入学を許されマルモンテルのピアノクラスとラヴィニヤックの理論のクラスに入ることになった。
  ここで師事した教師は他にデュラン、パヂーユ、キロー、それに非公式の短い期間だけであるがフランクがいる。
  80年の終りごろ、ギローのクラスに入り、師の指導の下に83年ローマ賞第2等を獲得し、翌年にはカンタータ「放蕩息子」で第1等に輝き、ローマ大賞を得て同音楽院を卒業した。
 
その後ローマで2年間留学生活を送った。交響曲「春」、カンタータ「選ばれた乙女」は留学生に課せられたアカデミーへの送付作として書かれたが、後者はパリに戻ってから完成。<1885 at Villa Medicis >(中央がDebussy)
1887年2月にはパリの両親のもとへ帰った。
  88年と89年にはバイロイトを訪れ、89年パリ万国博覧会の折に聞いたジャワのガムラン音楽に魅せられる。 この頃からガブリエル・デュポンとの関係が始まり、以後9年間に亘って赤貧の同棲生活が続くことになる。   さらに90年には「留学作品」の内の2曲、「ピアノと管弦楽のための幻想曲」と「選ばれた乙女」の公式演奏会の際に、通例付け加えることになっていた序曲を書くことを拒否して独立心をはっきり示したが、その結果コンサート自体が取りやめになった。1892年ドビュッシーはショーソンと親交を深めたが、この時既にヴェルレーヌの詩による「あでやかな宴」を完成しており、また「牧神の午後への前奏曲」と「夜想曲」の最初の稿にとりかかっていた。
  しかし彼の音楽が世間の注目を浴びるようになったのは、93年4月に国民音楽協会の演奏会で「選ばれた乙女」が演奏されてからである。
  翌月にはメーテルリンクの戯曲「ペレアスとメリザンド」の舞台を見て、恐らく直ぐにこの戯曲をオペラ化する構想を練り始めたものと思われる。
  12月にはイザイ四重奏団により、彼の弦楽四重奏曲ト短調が初演された。
 ドビュッシーは,94年初めに歌手テレーズ・ロジエと婚約したが、この婚約は気まずい状況のもと解消され、そのためショーソンとの友情が永久に絶たれることになった。
こうした「ボヘミアン時代」のこの上ない偉業が、94年12月に初演された「牧神の午後への前奏曲」であることは疑う余地が無い。95年の春までに、「ペレアスとメリザンド」の初稿を書き上げていたが、完成作品が表れるには97年夏の3曲の「ビリティスの歌」を待たねばならなかった。この年、当時も愛人関係にあったデュポンが自殺を図り、ドビュッシーの人生における絶望的な時期の先触れとなる。
1899年10月19日に、ドビュッシーはデュポンの友人でモデルをしていたロザリ(リリ)・テクシエと結婚した。
<Claude Debussy & LillyTexier>
またその年の12月にはオーケストラのための「夜想曲」を完成している。   1901年5月「ペレアスとメリザンド」のオペラコミック座での上演が正式に許可された。
 02年4月、この傑作のリハーサル中に、債務不履行で告訴され、大荒れに荒れた公開総練習であったが、4月30日の初演は直ぐにフランス音楽史上画期的な出来事として認められた。
  このオペラは以後10年間のうちにパリで100回も上演された。   1904年と05年は特に多作の年であった。この時書かれた新作には「あでやかな宴」の第2集、ピアノ曲集「映像」第1集、「喜びの島」、「海」が挙げられる。  
03年の秋、彼は銀行家の妻であったエンマ・バルダックと出会う。彼女は素人ながらフォーレが歌を捧げた程の歌い手であった
  04年6月ドビュッシーは妻の許を去り、秋にはバルダック夫人と共に、ボワ・ド・ブローニュ通りにある夫人が購入したアパルトマンに移り住んだが、この家は彼にとってついの住みかとなった。
  しかし同年10月には、彼の妻が自殺を図り、このスキャンダルによって多くの友人がドビュッシーとの関係を絶っていった。ファイル:Emma Debussy after Leon Bonnat.jpg<Emma Bardac>

<Claude Debussy & Emma Bardac>
1年後の05年10月30日、「海」の初演から2週間後にドビュッシーとエンマの間に娘が誕生し、クロード=エンマ(シューシユー)と名づけられた。
  両親は08年1月2日に婚姻届を出している。<Debussy & Chouchou>
 1906年には僅かにピアノ曲集「映像」第1集の初演と1曲のピアノ小品の出版があっただけで、次の主要作品の初演は、08年2月になってからである。この時はビニエスが「映像」第2集を演奏している。
  この頃までにドビュッシーの物質的豊かさへの望みは打ち砕かれていた。それは07年にバルダック夫人の叔父で金融業者のオジリスが、彼女から相続権を奪ってしまったからである。そのため、以後7年間に亘って ドビュッシーはピアニスト或いは自作品の指揮者として、イギリス、ベルギー、オランダ、オーストリア、ハンガリー、イタリア、ロシアと10回もの演奏旅行をしなければならなかった。
  1908年の終りにドビュッシーは、3曲から成るオーケストラの「映像」の第2曲「イベリア」を書きあげた。
  続く09年は音楽上の特別な成功を成し遂げた年である。
  まず、パリ音楽院上級評議会の一員に指名され、ロンドンでは「ペレアスとメリザンド」のイギリス初演が行われ大成功を収めた。またラロワによるドビュッシーの最初のフランス語の伝記が出版されたり、ピアノのための「前奏曲集」第1巻のうち5曲を書き始めたりもした。
 しかし、この年の初め頃から、彼を死に至らしめることになる直腸癌に苛まれるようになり、苦痛を軽減する為には、麻薬を用いなければならなかった。 
  翌年「イベリア」と「春のロンド」が初演され、新たに2件作曲依頼を受けた。いずれも主に経済的理由によるものとおもわれる。
  依頼による作品「カンマ」と「聖セバスティアンの殉教」はそれぞれ他の音楽家(ケクランとカプレ)に助力を頼んでいるが、彼自身のスタイルの展開についての明確な考えを示すこともなく、結果は成功とはいいがたいものであった。
  13年にはバレエ曲「遊戯」の管弦楽化を終えた。これはディアギレフのバレエ団によって、その年の春に上演されたが、その2週間後に初演された「春の祭典」に比べて、著しく見劣りがした。
  1914年、ドビュッシーはロンドンを訪れ、この後も引き続きアメリカ、イギリス、スイスへの旅行を計画していたが、これが最後の外国旅行となった。
 翌15年の初めに、彼の出版社ジャック・デュランにショパン全集の編集を依頼され、このお気に入りの仕事からピアノのための12曲の「練習曲集」が生まれた。 
  この作品はドビュッシーがプルヴィルで過ごした7月から10月までの間に作曲したうちのほんの一部に過ぎない。
<Debussy at Pourville (Normandy)>
この湧き出るような最後の創作期に、「白と黒で」を完成させ、また楽器の多様な組み合わせから成る六つのソナタを作る計画で、初めの2曲を作曲した。
  しかしパリへ戻ると激しい痛みに襲われるようになり、12月には結腸切開の手術を受けた。  翌年にはほとんど何の仕事もしなかったが、ポーの小説に基づく「アッシャー家の崩壊」の台本の最終稿だけは完成させている。彼はこの作品の計画を、おそらく25年もの間温めていたようであるが、ついに完成させることはできなかった。最後の作品、ヴァイオリン・ソナタは17年5月に、ドビュッシー自身のピアノ伴奏で初演された。同年9月サン=ジャン=ド=リュズでも同曲を演奏したが、それは彼が公の場で演奏した最後の音楽となった。18年の初め頃からは部屋に閉じこもったままとなり、3月25日、かえらぬ人となった。
Ⅱ.ドビュッシーとラヴェル
  
 ドビュッシーとラヴェルの文通については何の記録も残っていないが、1898年の初期、ラヴェルの「耳で聞く風景」の初演時が彼等の初対面で会ったようである。
  2年後、ラヴェルはドビュッシーが行った「ペレアス」の私的な通し演奏会に出席し、その後二人の関係は、「ペレアス」上演の時まで、確かに友好的であった。
  友情が壊れたのは、様々のつまらない理由からである。例えばラヴェルの「耳で聞く風景」の中の “ハイメージ 1バネラ” と、之より後に発表されたドビュッシーの“グラナダの夕暮れ”とが似ていると思われたこと、またラヴェルが「博物誌」の「人工的なアメリカニズム」のなかで彼の確かな才能を浪費したとするドビュッシーの失望、そして恐らくはドビュッシーの中にあるかなりの嫉妬心である。
  更に多分ドビュッシーの再婚の道徳観に対するラヴェルの批判も一因であろう。
 二人の共通の友人であるミジア・セールの後の証言によれば、ラヴェルは、ドビュッシーが見捨てた最初の妻に毎週少額の手当を援助していたようである。
  既に1904年にロランのような知的な素人でさえ次のように書いている。   「私も随分様々な音楽家に出会ったが、その中にドビュッシー自身よりドビュッシー的な人がいる。それはラヴェルだ。」このような言葉はドビュッシーを途方も無くいらだたせた。
 ロックスバイザーが指摘したように、ドビュッシーの書簡でラヴェルの名前が挙がるときはいつも、「嫌味や皮肉や懸念を帯びた調子」で言及されたのである。
  そして13年に、ラヴェルが自分と同じくマラルメの二つの詩に作曲したと分ったとき、ドビュッシーはかなりの不快感を表わした。これは多分に、再びお祭り騒ぎで比較されるきっかけになることを恐れたためであろう。
  それに対して「水の戯れ」における新しいテクスチャアや和声のアイディアの所有権を主張するラヴェルの気持ちは無理からぬものがあるが、それは別として、ラヴェルは生涯を通じてドビュッシーを師とあがめていた。
  ラヴェルは、ドビュッシーの作品を数多く編曲する傍ら、「スケッチ帳より」を初演したり、また20年の“Revue musicale”誌上に掲載された「ドビュッシーの墓」には、簡単なその場限りの曲ではなく、ヴァイオリンとチェロのためのソナタ第1楽章を捧げている。
  ラヴェルは晩年一人の友人に「牧神の午後」について「もう何年も前にこの作品を聴いたとき、初めて真の音楽とは何かを悟った」と語っている。
Ⅲ.ドビュッシーとストラヴィンスキー

 ドビュッシーとストラヴィンスキーが初めて会ったのは、1910年6月25日の「火の鳥」初演後の舞台裏である。
ドビュッシーの直後の反応は称賛であったが、ストラヴィンスキーはドビュッシーが後で「結局君はいつかは始めなければならなかったのだ。」と但し書きをつけたと語っている。  ロシアでストラヴィンスキーはジローティの指揮した「牧神の午後」と「夜想曲」に感銘を受けてはいたが、「火の鳥」にはドビュッシーの流儀はほとんど見られず、むしろリムスキー=コルサコフの影響の方が強い。「ペトルーシュカ」はドビュッシーが手放しで称賛したストラヴィンスキーの唯一の作品で、「私が<パルジファル>でしか見たことのなかった管弦楽法の確かさ」と「魔術」における「響き渡る魔法」と言っている。その後暫く2人の親交が続き、ドビュッシーは、ストラヴィンスキーに「遊戯」の管弦楽法について助言を頼んだりした。また彼等は「春の祭典」のピアノ二重奏を共演したが、ドビュッシーはその低音部をさしたる困難も無く初見で演奏した。しかし「春の祭典」の初演後、ストラヴィンスキーに対するドビュッシーの評価は、ほとんど恐れの様相を帯びるになる。 16年の書簡では、ストラヴィンスキーについて「時々音楽に粗暴なふるまいをする駄々っ子のようである。彼は、はしごを登るのを私が助けたので、私と友人でいるのだと公言している。そして全てが爆発するとは限らないが、彼はそのはしごから手りゅう弾を投げるのだ」と言っている。
 もしドビュッシーが、ラヴェルは才能を浪費していると感じたなら、ストラヴィンスキーはあまりにうまくやりすぎたのであろう。「春の祭典」のスコアをストラヴィンスキーから贈られた答礼として、ドビュッシーは「人生の坂道を下り始めてはいますが、音楽への強い情熱を持ち続けている私にとって、あなたがどんなに音の帝国の範囲を拡張したかと言えるのが本当に嬉しくてなりません」と書いている。  
  それはドビュッシーが始めた仕事であるが、既に病が重くなりすぎて、もうそれを究めることはできないと知っていたのだろう。ストラヴィンスキーはラヴェルと同様、この年長の音楽家に対して疑いなく恩義を感じていた。彼は<ペレアス>を「素晴らしい部分がたくさんあるのに、全体としては大層退屈だ」と恐らく思っていた。しかし彼は「私自身を含めて私と同世代の作曲家たちは、最も多くのものをドビュッシーに負っている」と認めている。
Ⅳ.作曲数(含未出版、未完)
〔曲の種類〕         〔作曲数〕
     オ ペ ラ           5
     バ レ エ           4
     付随音楽            4
     その他劇作品         32
     管弦楽曲           11
     管弦楽編曲          10
     声楽と管弦楽のための作品   10
     合 唱 曲           5
     室内楽曲           15
     歌  曲           56
     ピ ア ノ 独奏曲      30
       〃   4手用       3
       〃   2台ピアノ用    2
       〃   編曲        9
     合   計         196
参考文献:ニューグローブ世界大音楽辞典、新音楽辞典[人名]、 新音楽辞典(楽語)、標準音楽辞典、新編音楽中辞典(何れも音楽之友社)

 

2016年07月21日