モーツァルト愛好者に福音を届ける 名古屋モーツァルト協会顧問 k623 都築正道 |
ハイデッガーは、「言葉は存在が住む家である」といいました。その意味で、名古屋モーツァルト協会は、幸せな会員が住む家でなければなりません。それは、このホームページが望むところでもあります。
それを可能にするためにはどうしたらいいでしょうか。
孔子は、「まず、本を読め」と言います。
「吾嘗かつて終日食らわず、終夜寝ずして、思いぬ。益なし。學ぶに如かざる也」と論語にあります。
吉川幸次郎さんは、この言葉を自著『中国の古典』で、次のように解説しています。
「終日終夜の思索も、その効果は、『學』、すなわち讀書に及ばないというのであって、『學ぶに如かざる也』の『學』の字が、實は讀書を意味することは、論語の別の條から説明される」としている。
弟子の子路が、「何ぞ必ずしも書を讀んで然る後に學びたりと為せんや」。
すなわち、「何も本を読むばかりが學問でありますまい」と抗議したのに対し、「是の故に夫かの佞者(わいしゃ)を悪にくむ」、すなわち、「ばかをいえ、だからおれはへりくつをいうやつがきらいなのだ」と答えています。
もっともこの偉大な哲學者は、思索の価値をも、無視したわけではない。「學んで思わざれば則ち罔むなし」。
思索を伴わない讀書は、體系のない漠然たるものとなるというのだ。しかしこの言葉のあとには、次ぎの言葉が、注意深く、いいつがれている。
思うて學ばざれば則ち殆(つかる)
思索するばかりで讀書しなければ、精神を無用に疲勞させるばかりであると。
孔子の態度を、当時の他の學者から分つものは、他にもいろいろあったであろうが、その重要なものの一つは、かく讀書をもって、人間必須の任務としたことにあると、思われる。
音楽を愛し、巧みに琴を弾く孔子
また、このように読書を愛する孔子は、その一方で音楽を愛し、巧みに琴を弾く人でした。
孔子の音楽についての有名な言葉に、
「詩に興おこり、礼に立ち、楽がくに成る」(泰伯第八の八)、すなわち、「人は詩によって奮い立ち、礼によって自己の責務を自覚し、音楽によって自らを完成させる」というのがあります。人間形成における音楽の価値を読書とおなじ位置に置いています。
また、論語を読むと、「子、斉(せい)にありて韶(しょう)を聞く。三月(みつき)肉の味を知らず。 曰く、図(はか)らざりき、楽(がく)をなすのここに至るや」と音楽に感動した孔子の姿を正直に見せてくれます。
また、孔子の音楽とその作者に対する真摯な姿勢について、次のような逸話があります。
孔子が音楽の先生の襄子(じょうし)について、琴を弾ずることを学びました。
十日経っても他の曲に進もうとしないので、襄子が孔子に、「他の曲に進まれてはいかがでしょう」と言うと、「わたしは、この曲譜は習い覚えましたが、節奏の数理がまだ理解できないのです」と言いました。
その後しばらくして、また襄子が、「もうこの曲の数理は理解なさいました。別の曲に進まれてはいかがです」と言うと、「わたしはこの曲の意味が、まだわからないのです」と言いました。
その後、しばらくして襄子が、「あなたは穆然(ぼくせん)と物静かに、深く思うところがあり、 怡然(いぜん)と心楽しく、高く望み深く志すところがおありのように見受けられます」と言うと、
「わたしは作曲者の人柄を理解することができました。その風貌は、黯然(あんぜん)と色黒く、幾然(きぜん)と丈(たけ)高く、眼は遠くを望み見るよう、心は四方の国に王者たるもののように思われます。文王でなくて、誰にこのような曲が作れましょう」と言いました。
襄子は席を降りて、孔子に再拝して言いました。「わたくしの師匠も、たしかこれを文王の琴歌だとおっしゃいました」。
私たちが、孔子のように、本を読み、音楽を聴きながら、毎日を静かにおくることができるならば、これを最大の幸せとすべきです。
ただし、孔子のように、です。
以上