モーツァルトとアロイジア

モーツアルトを虜にした一人の女性、
         アロイジア・ウェーバー                 K.496 天野
“心の叫び”から生まれた「求愛のうた
 音楽家は音という表現手段を使って自分という存在をアピールする人です。当然、これを武器にして異性に対しプロポーズの表現をすることだってあるはずです。今回のレポートではここのところにメスを入れようと試みてみたのです。ちょっと幼稚な試みだと笑われそうです。まあ、クラシック音楽の「求愛のうた」を考えてみたという程度ものです。
 オペラや声楽曲の場合、作曲家は詩や台本に共感して、その主人公の気持ちを何とか伝えようと作曲します。この時の対象の異性は詩や台本の上での架空の人物への愛情表現を音楽にする場合と実在の自分の彼女にプロポーズの表現する場合があります。前者は眞の意味で “心の叫び” ではありません。私はこういう場合は除外したいのです。それは絵空事であって作曲テクニックの範疇に入ってしまうことになります。その作曲家が現実に恋愛している彼女( 彼 ) への「求愛の気持ちが存在」しているかどうか。このことが重要だと考えたのです。しかしこの区別は難しい。とりわけ器楽曲は。「この曲は彼女のことを想って作曲しました」という本人の告白の記録が残っている場合( ショパンのピアノ協奏曲第一番2楽章やグリーグのピアノ協奏曲など )は別にして…。
 このレポートはこれをあえてやってみようとしているのです。
 今回の考察の根拠は作曲された年代とその頃どんな女性と付き合っていたかを分析し、私自身がその曲を何回も何回も聴くことによって最後は私の主観で決めたものもあります。私の幼稚な知識でもって決めてしまったということで、まったく根拠のない答えを導いてしまったかもしれないことを断っておかなければなりません。もちろん音楽学者たちがそうだと結論付けたものも入れてあります。さて、音楽史を振り返ってみると、バッハの時代までの作曲家は教会や貴族たちの要望に応じて作曲するというのが一般的で、プライベートな恋愛感情を作品にぶつけるということはあまりなかったといえます。あまりと思わず書いたのですが、人間ですから、かって画家が教会の依頼で「聖母マリア像」を描いた時、実在の自分の彼女をモデルにして想いのたけを絵筆にたくした作品が多く残っています。そのことと同じように音楽家だってあったのかも知れません。( バッハだって!? ) でも、一般的にはそうではないというのがわれわれの習った音楽史です。ロマン派を待つこととなるというのです。
 モーツァルトを虜にした一人の女性、
アロイジア・ウェーバー ( 1760~1839年 )
 こうしていろいろ調べてきたのですが、「彼女への想いのたけ」を作品に反映させた最初の作曲家はモーツァルトだという思いに至りました。ありがたいことにモーツァルトに関しては彼自身や周りの人々たちが残した膨大な資料があります。これを基に後世の研究者のおかげで彼の作品の年代、足どり、女性関係についてはかなり分っています。私はこれをヒントに調べて行くと見えてくるものがあると考えたのです
       アロイジア・ウェーバー肖像画01
 1777年9
 モーツァルト21歳の時です。彼は就活のため、母と二人でパリに向かいます。この時生まれて初めて、父レオポルトのまるで操り人形のような束縛から解放されたのです。
 気分はルンルン。ミュンヘンを経て、マンハイムでウェーバー家 ( オペラ「魔弾の射手」の作曲家あのウェーバーの親戚筋 ) の4姉妹に出会います。その次女アロイジアにぞっこん参ってしまいます。彼女はまだ16歳で、かわいくて美しいソプラノ歌手です。( 肖像画01 ) 彼は夢を見ます。二人でいっしょにイタリアに行って、自分のオペラ作品を歌わせたら大評判になるだろうと。
1778年2月
★コンサート・アリア「わたしは知らない、このやさしい愛情がどこからやって来るのか」K.294
CD①:(ソプラノ)ルチア・ポップ (指揮)レオポルト・ハーガー モーツァルテウム管弦楽団
ルチア・ポップが好きだという人は多い。私もその一人だ。琴線に触れるように訴える歌声。モーツアルトの代弁者のようだ。
 こうして生まれたのがこの曲です。この曲を実際アロイジアは聴衆の前で歌いました。その時のモーツァルトの気持ちは天にも昇る気分だったでしょう。聴いていると分かってくるのですが、これは求愛の歌です。モーツァルトのアロイジアへの「心の叫び」です。余談ですが、一応声楽をたしなむ筆者としては、この曲を16,7歳の子供が満足に歌うことは至難の業だと思うのです。内容もともかく、技術的に音域、パセージ全て超難曲です。これを彼女は見事に歌ったと言われていますが、録音もない時代、今の人の耳から聴いてみてどんな程度だったか分かりません。後になってグルックはアロイジアの歌唱を聴いて絶賛したというから、早熟の天才少女だったかも知れません。美人ですらっと背も高くまさにスター歌手として生まれてきたような人なのでしょう。モーツァルトは彼女と一緒に居たいがためにこのマンハイムにいつまでも滞在しようとするのですが、父レオポルトからパリに行って職を探せと矢継ぎ早の催促が来ます。
17783
 やむなく彼女と別れてパリに行きます。しかしながら天才少年とちやほやされた昔のパリと異なり、今は冷遇される毎日。そんな中、頭の中は別れてきたアロイジアのことで一杯です。作品はなかなか売れないし、生活にも困窮していた時、ある音楽愛好家の侯爵から作曲の依頼が舞い込んできます。
それが「フルートとハープのための協奏曲 K.299」です。
1778年4
 この曲が生まれます。この頃はモーツァルトの傑作の山の年です。フルート四重奏曲( K.285a ),ヴァイオリン・ソナタ( K.301,302,303,305 )、フルート協奏曲( K.313,314 )、交響曲31番( パリ )などが生まれています。これらの曲には “アロイジアへの心のときめき” が見え隠れします。
 しかしこの3 ケ月後、7月に母を失います。八方ふさがりのモーツァルト。
1778年7月30
アロイジアに宛てて、ラブレターを書きます。「最愛のひとよ ! アリアのための装飾的変奏曲を今回お送りできなくて、申し訳ありません。…ぼくが一番幸せになれるのはあなたに再会し心からあなたを抱擁する至上の喜びを我がものとするその日なのです。…」と。
9月にパリを出発。帰国の途に。ところがモーツァルトは、もう一度アロイジアに逢いたいそれ一心です。この曲を彼女に歌って欲しい。ただそれだけを願って生まれた曲が…。
1778年12月
★コンサート・アリア「不滅の神々よ私はもとめはしない」K.316
 CD②:(ソプラノ)エディタ・グルベローヴァ
(指揮)レオポルト・ハーガー ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団
 この曲でグルベローヴァの右に出る歌手はいません。完璧。
 これは必至に迫りくる狂気のプロポーズの曲です。胸が締め付けられます。モーツァルトは彼女への手紙の中で自分のこの種の曲では最良のものだと語っています。
 もう居ても立ってもいられないモーツアルトの気持、心の叫びです。泣けてきます。
 こうしてパリから帰省する途中、ミュンヘンに立ち寄りアロイジアと再会します。彼女の声は一段と美しくなり、美貌にも磨きがかかって前途有望なオペラ歌手の卵になっていました。モーツアルトはプロポーズします。すでに劇場で成功していた彼女にとっては、モーツァルトは確かに昔は天才と言われたかも知れないが、今は見栄えのしない子供っぽい田舎の一人の音楽家に過ぎないと映ったのではないでしょうか。要は男としての魅力 ( 彼は身長が163cmでドイツ系の人にしては小柄であった ) を感じなかったのでしょう。けんもほろろに断られたのです。かくして失恋のどん底。彼はザルツブルクに帰郷します。この時、一つ年下の従妹マリア・アンナ ( 通称・ベーズレ ) を連れ添って帰ります。父はこの従妹との結婚を望んでいたようですが、モーツァルトはベーズレに対してはアロイジアに寄せたような恋心には至らなかったのです。想像ですが、この行動は失恋の腹いせだったのではなかったのでしょうか。
1779年1月
こうしてザルツブルクでは父の計らいで宮廷音楽師として復職します。でも、どうしてもアロイジアに対する未練はいっぱい残っています。

★ミサ曲 ハ長調 ( 戴冠ミサ ) K.317 より「アニュス・デイ」
 CD③:(指揮)カラヤン ベルリンフィル  (ソプラノ)アンナ・トモア・シントウ
この曲はザルツブルク近郊のマリア・ブライン教会の聖母像の戴冠祝日のために復職後の大仕事となりました。全曲を通じて実に世俗的なメロディーに溢れています。圧巻は「アニュス・デイ( 神の子羊 )」です。このソプラノのソロはまさにモーツァルトのアロイジアへの失恋への慰めではないでしょうか。アロイジアを聖母マリアとダブらせて作曲したのではないか。そう思って聴くといっそう心にしみわたってくるようです。このアリアが歌われ「平和を与え給え」の大合唱に進み全曲が結ばれていくところはモーツアルトの心の中そのものです。
ザルツブルクで2年間、まったく馬の合わないコロレド大司教のもとですが、宮廷音楽師としての仕事をしぶしぶこなしていたようです。その頃、アロイジアといえばミュンヘンの歌劇場と契約しスターへの道を歩み始めていたのです。このことを本は知っていたのか分かりません。彼はといえば夢となってしまったが、もう一度アロイジアに逢って仲直りしてイタリアに行って新しい運命を開きたいそんなことばかりを思っていたのではないでしょうか。
1780年11
そんな時、吉報がミュンヘンからやってきたのです。オペラ「イドメネオ」の作曲依頼です。この「イドメネオ」はある一定の評価は得たものの、当時としてはあまりに斬新で、台本がイタリア語であったこともありシーズン中には2回しか再演されなかったようです。このオペラの真価は20世紀後半になってからやっと日の目を見るに至ったというわけです。
1781年3月
そしてコロレド大司教の命令でウィーンに呼び寄せられます。そこでついに大喧嘩をしてしまいます。これを機に父とも、コロレド大司教とも決別し、ウィーンでの一人の生活が始まるのです。ここで運命のいたずらなのか、何とウィーンでの最初の住まいはウェーバー家の下宿だったのです。アロイジアはすでに俳優のランゲと結婚し人妻となっていました。モーツアルトの落胆はいか程だったでしょうか。あの甘い夢は露と消えてしまったのです。それでも未練を引きずり続けるのです。
1781年5月16日
 父に宛てた手紙です。「ランゲ夫人(アロイジア)のことでは、僕は阿呆(道化)でした。そりゃあ、たしかにそうです。でも恋をしたら阿呆にならない人がいるでしょうか ! それにぼくは彼女を本当に愛していたんです。 そして今でもぼくは、彼女がぼくにとってまだどうでもいい女性にはなっていないことを感じるのです。ぼくにとって幸いなのは、彼女の夫がどうしょうもないやきもち焼きで、彼女を決して一人では外出させず、したがってぼくが彼女と会う機会がめったにないことです。…」
妻コンスタンツェはアロイジアのあてがい ! ?

 ところでウェーバー家は4姉妹です。3女のコンスタンツェ( 1762~1842年 )がここで登場します。( 肖像画2 ) からも解るようにそれ程美人でもなく( スタイルがいいとモーツアルトは褒めている ) 、特別の教養人でもなく音楽は声楽がちょっと出来る程度のその辺にいるお姉ちゃんといったところです。どうしてこの女性に気を寄せるようになったのでしょうか ?
単に「あばたもえくぼ」ということだったのでしょうか ?
ここからは筆者の仮説です。コンスタンツェはアロイジアの妹ということで彼女とダブらせて親近感を感じるようになったのではないでしょうか。はっきり言えば、アロイジアの代替えです。セックス処理のため…。失言かな !
       妻コンスタンツェ 肖像画02
1781年12月15日
 決定的な証拠が残っています。この日、父に宛てた手紙です。
「…ぼくの最愛のコンスタンツェは醜くはありませんが、美人とはとても言えません。
彼女の美しいところは、その小さな黒いひとみとすらりとした身体つきです。機知はありませんが、健全な常識を持っていますから、妻として母としての務めは十分に果たすことができます。…」
ここで垣間見えることは決して「あばたもえくぼ」的な恋ではないことが分かります。大人の醒めた言葉で、何だか弁解じみている内容です。父親をただただ安心させようと一生懸命です。結論として、コンスタンツェに対してはアロイジアに寄せた時のように、狂うような恋の炎はなかったということです。コンスタンツェへの接近は妥協の産物ではなかったのではないのでしょうか。私はそう思えてならないのです。
1782年4月
★コンサート・アリア「私の感謝をお受け下さい」K.383
 CD④:(ソプラノ)エマ・カークビー (指揮)クリストファー・ホグウッド エンシェント室内管弦楽団
 この曲はカークビーがベストでしょう。ノックアウトだ。
アロイジアがウィーンを離れるとき、別れの演奏会で歌った曲です。何とあどけなく心に迫ってくる曲でしょうか。「どこに私がいようとも、いつまでも私の心はあなたの傍にいます」と…。未練タラタラです。私はモーツアルトが不憫に思えてなりません。
1782年8月
 こうして母親の詐欺的とも言える積極的なバックアップもあり、父レオポルトの猛反対を押し切って二人はやがて結婚する運命となります。
こうした頃、オペラの仕事とも取り組んでいます。
それが…。

★歌劇「後宮からの誘拐」 K.384
 CD:(指揮)ゲオルグ・ショルティ ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 ここで奇跡のようなことが起こっています。オペラの主人公の名前が何とコンスタンツェと同姓なのです。ストーリーは簡単です。トルコの太守セリムに売られてしまった許婚のスペインの貴族の娘コンスタンツェを恋人ベルモンテが助け出すというものです。
 これはオペラの台本ですからモーツアルトの現実とは異なった世界の出来事のはずです。でもこの台本上のコンスタンツェをアロイジアに、ベルモンテをモーツァルト自身に置き換えたとしたらとんでもない解釈が成り立ちます。ひょっとしたらモーツァルトはオペラ上のコンスタンツェと現実のコンスタンツェとどうしても諦めきれない人妻のアロイジアを混同してしまったのではないか。つまりオペラと現実と夢とを錯綜させてしまったのではないか。( 馬鹿げた筆者の仮説ですが… ) しかしこの仮説が成立するとこのオペラは実に面白くなります。10倍楽しめます。でもこんなことがもしも事実だったとしたら、実在のコンスタンツェがあまりにも可哀そうになってしまいますよね…。
 ここで挙げた三つのアリアを聴いてください。
1, ベルモンテ( モーツアルト自身 ) のアリア「ここで君に逢えるのか、ああいとしいコンスタンツェ ! 」CD⑤:(テノール)エスタ・ウィンベルイ
2, コンスタンツェ( アロイジア ) のアリア「私は恋をし、幸福でした」CD⑥
3, コンスタンツェ( アロイジア ) のアリア「あの運命が二人を離した日から」&「あらゆる種類の拷問が」CD⑦、⑧:(ソプラノ)グルベローヴァ
さらに、奇妙なことが起きているのです。コンスタンツェの役を初演こそ異なるのですが、後日の公演ではあのアロイジアが実際にこの役を舞台で歌っているのです。この時のモーツァルトは如何なる気持ちだったでしょうか ! どうですか ? 私の仮説もまんざらではないと思うのですが、いかがでしょうか…! ?
1783年6月
★コンサート・アリア「ああ、できるならあなたにご説明したいものです」K.418
 CD⑨:(ソプラノ)エディタ・グルベローヴァ (指揮)ニコラウス・アーノンクール ヨーロッパ室内管
ライブ録音。この演奏は奇跡としか言いようがありません。スゴイの一言。筆者はモーツアルトのコンサート・アリアの中では一番好きな曲で、宝のような愛聴盤です。
 ウィーンのブルク劇場でアロイジアによって歌われた。歌詞の大意は「私の苦しみがどんなものか。でも私は運命の定めにより泣き、黙するしかありません」と。
1783年6月
 モーツァルトはこれ以後、感情むき出しの恋をするようなことはなかったようです。ひたすら生活するために作曲に没頭したのです。断定してしまいましたが1783 年長男が誕生します。自分の子供が生まれてなお、元の彼女のことをメソメソと想い続ける…そんなことは人間として考えられないからです。こうした観点に立つと、これ以降の恋愛にまつわる曲は、感情から生まれたものではなく、理性が勝った曲すなわちテクニックの範疇で生まれた曲だという見解も成り立ちます。

・語り尽くされたテーマですが筆者にとっては新しい発見ばかりで、心ときめく時間でした。特に年代別の分析をすることによって発見できた歌劇「後宮からの誘拐」での仮説(真実は分からない)は、筆者としては大満足でした。
・なお、視聴のCDは筆者手持ちのものから選んだものでこれがベストとは言い切れませんが、いずれも「レコード芸術」誌 特選盤です。ご関心の方は天野まで申し込みください。プレゼントします。
・このレポートは筆者が所属する同人誌「ちいさなあしあと」第55号 2017年新年号に掲載した「恋愛と音楽について考える」を大巾に加筆し年代順に改編したものです。
<主な参考文献>
・田辺秀樹著 「モーツァルト」 新潮文庫
・海老沢敏著 「モーツァルトの生涯」 白水社
・「名曲解説全集」声楽曲Ⅱ 音楽之友社
・記載のCD、レコードの解説文より一部を参考にした

 

2016年03月01日